イスラームの国家と王権

イスラームの国家と王権

佐藤次高、岩波書店、2004年。

スルターン制の成立
当時アッバース朝カリフはバグダートにいた。
105、1038年ニシャープールに入城したセルジュークのトゥグリル・ベクは「現世と宗教の柱にして偉大なるスルターン」と称した。
106、スルターンという言葉は元々「権威」は「超越的な力」という意味でクルアーンにも現れる。
108、カリフ・スルタン制=「カリフがスルタンの支配に正当性を与え、スルタンはカリフの地位を保護する」。ブワイフ朝はカリフと大アミール(シーア派)であった。
111、サラディンの父はクルド人アイユーブ、セルジューク朝のタクリートの総督(ワーリー)
111-116、サラディンの戦略=「アッバース朝カリフを戴いてイスラーム世界を統一し、諸勢力を結集して十字軍に対処しようとする116」
133、ムスリム社会の奴隷。134、①生まれつきの奴隷:母が奴隷。②戦争捕虜:ジハードの戦争捕虜は合法。ムスリム同士の戦争捕虜は奴隷にできない。
136、マムルークの購入と教育。
137、スルタン・ナースィルによるマムルークの購入。(マクリースズィー『諸王朝の知識の旅』Ⅱ、p524)
141、アイユーブ朝のスルタン・サーリフはトルコ人マムルークを購入した。クルド人やホラズム人などの不忠のため。
142、当初は「サーリヒー・マムルーク」(サーリフが購入したから)と呼ばれたが、ナイル川のローダ島に兵舎が移されたあとは「バフリー・マムルーク」(「海のマムルーク」)として知られる。
142-143、シャジャル・アッドゥッルのこと。当時の歴史書は、先のアイユーブ朝は「クルド人の国家」次のマムルーク朝を「トルコ人の国家」と呼び分ける。
144、シャジャル・アッドゥッルの呼称について:説教師たちは「ムスリムたちの女王、ハリールの母」や「ムスリムたちの女王、ハリールの母、サーリフ王の配偶者」と呼びかけた。(マクリースズィー『諸王朝の知識の旅』Ⅱ、p362)P.Holtは「サーリフの配偶者」と呼ばれたことについて、彼女自らアイユーブ朝の正統な後継者とみなしていたことを示すとした。(Holt,1986,83-84)
146-148、よそから来た奴隷のマムルークがエジプトを支配する正当性をどうやって獲得していったか。=アッバース朝カリフを擁立(イスラームの保護者)、カーバ神殿への寄贈、ウラマーの指示、イスラーム法の慣行に従う。公正。公益増進・公共事業。
149-、マクリーズィー(ウラマー)のこと。イブン・ハルドゥーンの弟子。
170-171、カリフの権アッバース朝を中心に。限①フトバ、②貨幣の鋳造(スィッカ)、③ラカブ(尊称)授与、④ナウバ(楽隊)礼拝時にカリフの宮殿の前で音楽を奏する慣例。