応神と仁徳に隠された海人族の真相

伴 とし子『応神と仁徳に隠された海人族の真相』2012年、新人物往来社

大丹波王国について調べていると、大丹波王国論(丹後王国論)を研究しているという伴とし子氏の名前をよく目にする。同氏は「古代丹波歴史研究所」の所長である。この研究所には一般の人も入会することができる。
まずは、一度著書を読んでみることにする。

『後漢書』-107年、倭国王 帥升(すいしょう)が後漢に朝貢
『古事記』開化記ー旦波の大縣主 由碁理(ゆごり) 初見
国宝『海部氏系図』丹後一の宮 籠(この)神社所蔵 平安期

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古代の丹波は、桑田郡、船井郡、何鹿(いかるが)郡、天田郡、多紀郡、氷上郡、加佐郡、与謝郡、竹野郡、丹波郡(後の中郡)、熊野郡、あわせて十一郡であった。和銅六年(712)に、丹波国から加佐郡、竹野郡、丹波郡(後の中郡)、熊野郡の五郡を割いて丹後国(たにはのみちのしり)となった。丹後国になった丹波郡のなかには、現在も大字丹波の地名が残っている。この分国された丹後国にこそ主勢力があり、「丹後王国」ともいう。
古代王朝として、「三タン王朝」といわれるのは、「丹波」「丹後」「但馬」である。しかし、海部族が統率した地域として「若狭」も入るであろう。

143
『海部氏勘注系図』の「籠名神宮祝部丹波國造海部等氏之本記」より
17世孫 丹波國造明國彦命(難波根子建振熊命)=応神の将軍として忍熊王を討つ。応神に大王を譲位、臣下に。また筆者は仁徳天皇と同定
18世孫 丹波國造建振熊宿祢→海部直の姓を賜る
19世孫 丹波國造海部直都比→この代から海部直となっている

153
履中天皇の息子、市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)は皇位継承争いに巻き込まれ、命を落とす。二人の皇子億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は丹後の豪族日下部使主(くさかべのおみ)に守られ丹後の難波野にたどりつき、その後大内峠を越え播磨の国に逃れる。

157-158
仁徳天皇は正妻 石之比賣命(いはのひめのみこと)の他、髪長比賣(かみながひめ)、宇遅能若郎女(うぢのわきいらつめ、異母妹)、八田若郎女(やたのわきいらつめ)を妃とした。さらに八田若郎女の姉妹である女鳥王(めどりのきみ)を迎えようと、異母弟の速総別命を使いにやると女鳥王は「私はあなた(速総別命)の妻になりたい」と言って二人は結ばれる。
当然大君は速総別命を殺そう軍を送る。速総別命と女鳥王が逃げたのが倉椅山(くらはしやま、漢字は「橋」ではない)
はしたての くらはし山を さがしみと いはかきかねて 我が手とらすも
はしたての くらはし山は さがしけど 妹とのぼれば さがしくもあらず(妹=愛しい人、さがし=険しい)
このくらはし山は大和にあるといわれるが、倉梯山とみられる山は丹後にもある。「はしたて」は倉にかかる枕詞。
『丹後く事記』では「~妹弟連て、丹波に走る。与謝の倉梯山に隠れ、軍(いくさ)して後、死する」とある。
大内峠もこの逃避行の道。

163-165
『海部氏勘注系図』の9世孫日女命(ひめのみこと)筆者は『魏志』倭人伝の卑弥呼と考える。同じく11世孫孫日女命はトヨ。

194
神武東征より前にヤマトに建国したのがニギハヤヒ=ホアカリ系(丹波系)。
崇神=イクメイリヒコ、イリ王朝。入婿、トヨに?
景行天皇=オホタラシヒコノミコト、成務天皇=ワカタラシヒコ、中哀天皇=タラシナカツヒコ、神功皇后=オキナガタラシヒメ、「タラシ」は近江王朝。ヤマトから南山城に亡命した葛城王朝が発展した政権。

[参考]
三輪→葛城(ネコ?)→イリ=三輪王朝(崇神~)→タラシ=近江(葛城系)(景光~神功皇后)→ワケ=河内王朝(応神~反正)→播磨王朝本拠は飛鳥(顕宗、仁賢、武烈)→近江(越前?)王朝(継体~)=今上天皇に続く