突厥やソグド、中央アジア史について

academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1024922125/ の書き込みより

内藤みどり『西突厥史の研究』1988 に、 
付論・ 「東ローマと突厥との交渉に関する史料 Menandri Protectoris Fragmenta 訳注 」 
他3編の東ローマと突厥関係の論文が掲載されてまして、これが恐らく番組の元ネタでしょう。 
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容は、突厥とサーサーン朝がソグド人の通商問題についての不和から関係が決裂し、西突厥のイステミ可汗が通商関係を新たに築くべくソグド人マニアクらを東ローマに派遣したことが述べられています。その返礼使節としてキリキアのゼマルコス Zemarchos がソグディアナに駐留していたイステミ可汗Dizabulosの王庭に派遣されたようです。 
そこで、可汗が2輪付きの金の椅子に座していたことや「異国風の酒云々」が出てきています。
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護雅夫『古代遊牧帝国』中公新書。

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眉毛がつながった美人はペルシャ帝国の美意識が影響しています。
ですから中央アジアだけでなくカフカース地域でもそのような美人画が描かれています。

しかし現在でも実際に眉毛をつなげているのはウズベキスタンやタジキスタンの中高年~お年寄りの女性にほぼ限られていますね。イランでは既に廃れています。 
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森安先生(専門はウィグル) 興亡世界史5『シルクロードと唐帝国』
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中央アジアで編纂された歴史書がほとんど無いから、断片的な事しか分からないのが原因。

せめて、カラハン朝やモンゴル帝国時代に、誰かカラハン朝とか天山ウイグル王国とかの王朝史を書いてくれていればまた違ったんだろうけど・・・

あと元朝時代に『遼史』『金史』が、南宋で『契丹国志』とかが編纂されたりしているから遼朝の歴史についてはそこそこ知ることが出来るけど、西遼については『遼史』におまけ程度に書かれているだけで、王朝史自体が書かれていない。(単に発見されていないだけかもだが)

西遼は耶律大石がセルジューク朝のサンジャルを破ってからモンゴル帝国が擡頭してくるまで、中央アジア周辺では最重要の王朝のはずだけど、史料上の制約のせいで影が薄すぎる。 

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